2012年御翼8月号その3

国際連盟の星   新渡戸(にとべ)稲造

 新渡戸稲造は15歳で内村鑑三と同時に札幌農学校に入学、そこで信仰を持った後、21歳で東京大学に入学する(農政学、英文学)。その一年後、アメリカへ渡る。東部の町、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学で歴史政治学を学ぶ一方、新渡戸は自分の信仰を模索するため、キリスト教会をいくつも訪ねる。「各派の教会に行ってみたが、宗教の機関が余りに立派で唯奢(ただおごり)と装飾が眼に付き過ぎて、何だか新約全書に載せてある宗教とは別物のやうな感が起こった」(『帰雁の蘆』きがんのあし)
 雄弁な牧師に着飾った人々、どの教会にも新渡戸が求めるものはなかった。ある日、新渡戸は飾りのない学校のような建物に、普段着の人達が入って行くのを目にする。それは、クエーカーと呼ばれる宗派のホームウッド集会所(ボルチモア)だった。クエーカーは平等、実践、質素、そして何よりも平和を重んじる。牧師はおらず、礼拝では誰でも発言できる。「説教する演壇もない。讃美歌もない。折に聖霊に感じた人あれば、誰でも立って二、三分、長いので二十分も感話を述べる。集会は黙座瞑想を主とし、各自直接、神霊に交わるを以て礼拝とする如き。頗(すこぶ)る僕の気に入った」(『帰雁の蘆』)。真のキリスト教に出会ったという新渡戸は、このホームウッド集会所に入会、同じクエーカーの女性、メリー・エルキントンと結婚、武士道のような本を書くよう提案したのもメリーだった。彼女は編集も手伝ったという。
 1914年第一次世界大戦が勃発、日本は連合国側に立って参戦、勝利を収め、世界の一等国となる。4年余りに渡り、甚大な被害をもたらした戦争、その反省から1920年、国際連盟が設立される。日本も国際連盟の常任理事国となるが、徹底した平和主義者だった新渡戸は、国際連盟事務次長に選ばれる。1919(大正8)年から8年間、新渡戸は、国際連盟の星と呼ばれるほどの活躍をする。彼は世界中で、産業や貿易から、芸術、宗教、医療などの分野で活動する民間団体を自ら訪問し、会談を行い、国際連盟の目的について語った。1925年1月、一時帰国した新渡戸は長崎市の中島会館で講演し、以下のように述べている。「国際連盟の目的は戦争を止めることにある。ある人はどうして戦争が止められようかという。しかし、昔あったことだから止められぬということはない。封建制度や奴隷制度の如きものは、昔あったことだが今日の文明国に現在ない」と。
 新渡戸はまた、戦争回避のため知恵を出し合う、知的協力委員会を作った。物理学者のアインシュタインやキュリー夫人など、世界各国の知識人に呼び掛け、12名のメンバーによる知的協力委員会がスタートした。そして、世界各国の学校や研究機関の連携に力を入れるが、第二次世界大戦後、この活動は、ユネスコに引き継がれて行った。
 1927年(昭和2)、新渡戸は国際連盟の仕事を終え帰国すると、アメリカで100回を超える講演を行う。「米国の人々が、全ての事実を知ったなら、日本が世界の平和を望んでいると分かるに違いない」と新渡戸は言った。しかし、新渡戸の言葉を裏切るように、昭和8年2月、日本軍は中国の熱河省に侵攻、日本は国際連盟を脱退し、戦争への道を歩み始める。同じ年の10月、新渡戸は軍国主義が台頭する日本の将来を懸念しながら、カナダで亡くなる(享年71)。
 終生平和を願い続けた新渡戸は、その願いを次の世代に伝えようとしていた。女子教育に力を尽くしていたのだ。新渡戸の神を中心とした人格形成の影響を受けて、日本人女性による女子教育者が輩出され、津田梅子は津田塾大学、河井 道は恵泉女学園、安井てつは東京女子大学を創設、新渡戸は東京女子大学の初代学長も務めている。「少女のうちから平和の教育を受ければ、戦争のない世界を作ることを少女たちは学ぶ。その少女たちはやがて、家庭を持って母になったときに、同じ考えをその子どもたちに伝えて行くだろう。自分は、婦人が世界の情勢に関心を持つまでは、戦争はやまないと思う」と新渡戸は考えていた。「戦争が人類を引き裂くことはなく、戦争の噂が女性の心に恐れを抱かせることもない、未来の夢を私は夢見る。私の夢のことで私を嘲(あざけ)らないでほしい。夢こそ来たるべき時代のさきがけだからである」(新渡戸稲造)
 「立派」な宗教機関の中でおごり高ぶっているような教会に、新渡戸にとって真理はなかった。質素で平和主義の教会でイエス様への信仰を再確認できた新渡戸は、国際連盟の星と呼ばれるまで、平和活動に従事し、その働きはミッション系の学校へと引き継がれている。

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